大月町の遍路札




大月町の赤泊集落の中の西田家および、
道の駅(ふれあいパーク)付近の松田家には
現在も多くの遍路札が残されている。

写真は赤泊の西田家に残る札

色・形さまざまな札

約15600枚の大量の札が
スゲで編んだ大俵に入れられ
天井より吊るされ
大切に保管されていた。

特に西田家の札については
新居浜の喜代吉榮徳(きよよしえいとく)氏の
「四国辺路研究」第2号に詳しく研究、記されている。


西田家に残る15600枚の札は主に江戸時代末期に集中している。
特に、弘化2年(1845年),3年の頃のものがほとんどを占める。

この頃は諸外国が日本を盛んに訪れ、
日本に開国を迫った時代である。

また、弘化2年(1845年)は特に
四国巡拝280度の中司茂兵衛の生まれた年でもある。



多くの札は手書きで書かれ、北は北海道、南は鹿児島まで
全国各地から訪れていたことが伺われる。

昔は今とは比べ物にならないくらい多くのお遍路さんが
大月を通過したそうである。

今では80歳を超える大月の女性は幼少の頃を振り返り、
「お米をお遍路さんに施すのは、大人の手だと沢山のお米が必要なので
手の小さな子供の自分の役割であった。
当時は自分たちの生活も貧しかったので、沢山渡すと親に叱られた。」と語る。

赤泊の浜から集落を抜け、姫の井に至る道は、少し遠回りになるが、
間違いなく、昔、多くのお遍路さんが踏みしめた道である。
当時を偲びながら歩いてみるのもいいのではないだろうか。